「つくばねの峰より落つるみなの川……」かの百人一首にも選ばれた、陽成天皇の詠んだ歌です。筑波山の峰から流れ落ちる男女川の情景に深い恋慕を重ねた恋の歌として、大変有名です。万葉の頃より多くの歌人に愛されてきた歴史深い筑波山の麓で、江戸末期より酒を醸し続けている「稲葉酒造」を取材しました。150年以上続く老舗酒蔵でありながら、これまでの価値観を革新する酒づくりに挑戦しています。
【稲葉酒造の酒づくり】
筑波山麓で1867年に創業した稲葉酒造。和歌にも詠われた、筑波山から流れる清流の名を冠した代表銘柄「男女川」をはじめ、つくばを代表する地酒を醸しています。150余年の歴史ある老舗蔵ですが、1999年に伸子さんが6代目蔵元を継承した際、日本酒業界全体が、効率重視の大量生産が主流の中、採算を度外視した手作業による高品質な日本酒造りを始めました。
日本酒造りの最高責任者を「杜氏」といい、毎年仕込みの時期になると、杜氏が率いる蔵人集団を呼んで酒造りを任せるのがかつての主流。そんな中、伸子さんは蔵元のみならず、自らの手で酒造りを取り仕切る杜氏も担うことを決めました。自社杜氏、しかも女性の杜氏は当時大変珍しく、「良い意味でも悪い意味でも注目を浴びた」と伸子さん。それから20年、ひたむきに酒造りへ取り組んだ伸子さんの想いは結実し、今や稲葉酒造の酒は国内のみならず海外からも高い評価を得るところとなりました。全国新酒鑑評会で純米大吟醸での金賞受賞、ロサンゼルス国際ワイン・スピリッツコンペティション(LAIWC)最優秀金賞、インターナショナル・ワイン・チャレンジ(IWC)SAKE部門でメダルを獲得するなど、数々の賞に輝いています。
「稲葉酒造の日本酒の特徴は、まず創業から変わらない敷地内の湧水。そして、大量生産とは異なる細やかな仕込みです。原料は、今やどこの蔵でも同じものが手に入る時代。酒造りの8~9割を左右するのは蔵人の技術と言われます。小回りの効く規模での仕込みだからこそ、手が行き届き細かく品質を管理できます」と話すのは、伸子さんと共に稲葉酒造を支える夫・芳貴さん。その言葉を裏付けるのが、伸子さんが新たに造り上げた酒「すてら」の仕込み。「すてら」は全て純米大吟醸ですが、毎年7タンクに限定して仕込み、それぞれのタンクごとに違った風味を味わうことが出来ます。「2号タンク」や「7号タンク」など、タンク番号を指定して購入するファンも多いとか。つくばが誇る、プレミアム日本酒です。
【筑波山麓のテロワールを、世界へ】
そんな稲葉酒造が贈る最上級の一本が、2019年酒造年度より登場した「STELLA SENSE」(ステラセンス)です。その価格はなんと3万円(720ml)!パッケージにもこだわり抜いた、茨城県内はもちろん国内でもなかなかお目にかかれないスーパープレミアム日本酒です。実はこの「STELLA SENSE」、海外のミシュラン掲載ハイクラスレストランからのリクエストをきっかけに造ったそうで、限定生産数250本のうち100本以上が海外へ輸出されているとか。水は言わずもがな筑波山の湧水、米は近隣契約農家と筑波山麓の棚田で栽培した酒造好適米100%。更に、酵母は茨城県産業技術イノベーションセンターで開発された県独自のものを使用と、地元の素材にこだわり、筑波山の風土で醸した珠玉の酒です。そしてもうひとつの特徴が、素材本位の仕込み。「“STELLA SENSE”ではその年その年の採れた米の出来に合わせてその味を引き立たせる最適な仕込みをするため、精米歩合も毎年変えています」と芳貴さん。さらに、芳貴さんはワインを例に挙げ、日本酒にも地域性が重要と話します。日本酒と違い、1本1万円は普通で最高級のものは数百万円の値も付くワイン。フランスでは産地が重要視され、ぶどうの育てられた畑によって格付けをなされているところもあります。
「“STELLA SENSE”は、その年の筑波山麓が見えるお酒。飲んでもらった人に“蔵はどんなところにあるんだろう?どんな想いでこの酒を造ったんだろう?”そんな情景が伝わるようなお酒を造っていきたいと思っています」(芳貴さん)。また、「STELLA SENSE」は米の種類や精米歩合、酸度などといった情報は非公開。外部情報を見て、頭で考えて味わうのではなく、感覚を研ぎ澄まして香りや味を楽しみながら、第六感で感じてほしい逸品。
プレミアム日本酒市場で主流となっているブランド米や、極限まで米を削ったりする競争には参入せず、自分たちの酒を造る「地域」を主軸に価値を作っていく……それが、稲葉酒造の有り方です。
【筑波山麓の米と酒で、未来を切り拓く】
稲葉酒造の挑戦は更に続きます。2019年に「STELLA SENSE」の開発と同じくして、地元・筑波山麓の農家さんと共に酒米を造る「筑波山麓日本酒プロジェクト」を立ち上げました。「稲葉酒造のある筑波山周辺は、観光と農業が地域の柱。でも近年、どんどん農家さんが減っていてこのままでは産業も生活も廃れていくのではないかと……。日本酒にとっても米は重要なもの。米で地元の農業をバックアップできないか、とずっと考えていたんです」(芳貴さん)。現在、プロジェクトには3軒の山麓農家が合流。常陸小田米を作る筑波農場、加えて稲葉酒造に縁ある2人の若手農家の協力を得て、酒造好適米2品種を栽培しています。「元来、この地は米どころとして有名ですが、米作りにはミネラル豊富な水、そして恵まれた土壌が重要。更に、昼夜の寒暖差が美味しい米を育てます。当プロジェクトでは、筑波山の湧水が入る棚田を活用しているのも大きな特徴。これが本当に素晴らしくて、有名産地のお米とはもちろん違いますが、繊細ですごく綺麗なお酒が出来る」(芳貴さん)。地元で酒米を作るメリットは酒造り以外にもあり、食米に比べ酒米は高値で取引が可能。今後生産量が増えていけば、地元農業を活気付ける一助となる可能性は大いにあります。時間はかかれど、ゆくゆくは全量地元米に切り替えたいと芳貴さん。
聞けば、稲葉酒造の創業のきっかけは「敷地内に良質な湧水があったことと、地主として余剰米があったこと」で酒造りが始まったそう。そんな当時のルーツに想いを馳せ、芳貴さん・伸子さんは現在、新たな夢を追いかけています。「創業当時、酒造りに使っていた米について調査をしていたんです。研究機関の協力で最近やっと品種が判明して、作れそうなものを選抜して、試験栽培をスタートしました」(芳貴さん)
地元米での酒造り、更に創業当時の酒米復活。他のどこにもない、筑波山麓の稲葉酒造でしか造れない日本酒を追求しています。
大切な人と過ごす特別な時間は、筑波山の風土が醸した珠玉の日本酒とともに。
稲葉酒造
TEL:029-866-0020
つくば市沼田1485
営業時間:9:00 ~ 18:00
定休日:水曜日
https://ibanavi.net/shop/12689/